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キャンプホリックの一人話談

街を走り、山を登り、キャンプして遊ぶ、の巻

食べ物動物園

人間は罪深い生き物だ。生まれながらに罪を背負ってしまっているのだから。

どんなに小さな昆虫でも、その辺の雑草だってみんな生きている。生きようと必死で頑張っている。自分達もそうだ。

だけど、我々は生き物を殺さずには生きていけない。おそらく1日として命を奪わない日はないだろう。完全なベジタリアンでも生命を殺めているんだ。

命に優劣はない。草でも虫でも魚でも獣でもみんな生きている。

その命を糧にしないと人間は生きていけない。

これが人間が生まれ持った逃れることの出来ない罪。業というやつだ。

もちろん人間以外の動物も他者を獲物にしているが人間は奪う事はしても自ら与える事はしない。

そうやって1000年以上前から人々は生きるために食料を獲得して繁栄してきた。

今でこそ食べ物は大した苦労もなく手に入れたい時に手に入れられるが、大昔は何をするにも命がけだっただろう。

だからこそ昔の人は手に入れた食料を大切にして余す所なく使えるようにするための工夫を模索した。

自然が与えてくれた命の恵みを最大限有効活用するために何世代にも渡って研究を重ねて、その知恵と技が受け継がれたおかげで今の自分達の暮らしに多大な恩恵がもたらされている。

 

と言う話を美味しんぼで読んだ事がある。

ところが、そういう知識が頭の中に入っていても、自分のような未熟な人間は当たり前の有り難さをついつい忘れてしまいがちだ。

当たり前に電気を使える、当たり前に水が飲める、当たり前に食い物にありつける。

当たり前のことができずに困っている人もいるが、自分も含めて多くの人が『用意してもらっている当たり前』にふんぞりかえって暮らしてはいないだろうか。

 

そこで、改めて自分達の食文化がいかに偉大で有難いものなのかを分かりやすく、そして楽しみながら再認識できるようにするために、自分達が日頃食事にしている生き物達を展示した動物園を作ってはどうだろうかと考えてみた。

知る必要はあるんじゃないだろうか。

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もし、焼肉で食べているカルビはこの牛から取れてるんですよって説明を受けながら、まだ生きている牛を見た事で『もう牛食べたくない』なんて言ってしまうなら、それはあまりに身勝手で横暴だ。

彼らは単なる食材ではない。母親から生まれてきた瞬間からカルビやロースじゃないんだ。

生きようと願う命なんだから、それを肉として頂くことに畏敬の念とまでは言わないが、食べられるために生まれてきた者の姿を刮目し、自分達に『当たり前』を与えてくれているのはなんなのか、そういう普通の生活の中では見えにくい部分を知ろうとすること自体が大切なんではないだろうか。

たとえば秋田の比内地鶏とか、かごしま黒豚とか、有名銘柄の和牛とか。

ただ、かごしま黒豚や銘柄牛などはその土地で育てられている事がブランドとして重要なポイントらしいので『これが松坂牛なんですよ』と展示されても、ずっとその動物園で飼育されていたら意味が違ってきてしまうんだろうから、有名な松坂牛や近江牛や神戸牛なんかはウィークリー企画とかにして、一定の期間内だけ現地からお借りするみたいな展示の方がいいかもしれない。

まあ、それはそれで移動で牛にストレスがかかって肉質が落ちてしまう、みたいな問題が起こるのかもしれないけど。

大事な点は、その動物園にいる動物はすべて実際にこれから食用になる動物だけにすべきだと思う。鳥も豚も牛も馬も羊も展示されている動物達は全て食用として飼育されている動物だけにしたい。

普通の動物園ならまた来れば同じ動物を見れるだろうが、展示されている全ての動物がこれから屠殺される前提で飼育されているわけだから、そういった事も含めて飼育員さんから説明を受けながら、これから目の前の動物達がどうなっていくのかを知って、当たり前に用意されている食のサイクルを分かりやすく理解できる環境があったら、と思った。