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キャンプホリックの一人話談

街を走り、山を登り、キャンプして遊ぶ、の巻

自慢できるほどの事

中学生の頃からギターを弾いてきて、今でもギターを弾くのは大好きだけど、それ以上にこの10年ほぼ毎日やってるランニングが楽しくて仕方ない。

もともとは好きな山登りのためにもっと体を鍛えようと思って始めたランニングだったけど、気がついたら山登りよりランニングのほうが楽しくなっちゃって、これはおそらく一生続けていくんじゃないかなと感じてもいる。

ランニングやギターと同じくらい好きなもう一つの趣味がキャンプ。

キャンプはライフスタイルとしてなくてはならないもので、最低でも月に1回はキャンプに行けないと生活が息苦しく感じてしまうほど。

冬場でも快適にキャンプが出来る装備も万全に整えているし、あとはソーラー充電可能なポータブル電源があったらいいねと妻と話している所。

ギターとランニングとキャンプ以外はなにもしてないし、それ以外の事は一切考えてないと言っていいくらいな僕だけど。

 

そんな僕なんだけど、僕が人に自慢出来るほどのことって落ち着いて考えると『スケート』と『金魚すくい』しかない。

僕がFF5のジョブの一つだったら、覚えるアビリティはスケートと金魚すくいだろう。

これではなんの役にも立たないしファンタジーじゃない。

最近はキャンプが流行ってるみたいでキャンプ場はいつ行っても割と混んでるし、昔と比べてキャンパーの装備もみんなお金がかかっているみたいで、設営が完了したサイトはどこも豪華だ。

僕も20年くらいキャンプしてるので今まで色んな場所で色んな状況に遭遇してきた経験があるから、キャンプしてて困る事が起きないようにするための装備を固めているけど、こんなのはお金をかけてば今日からキャンプを始める人にだって集められるもの。

ギターだってトレーニングだって長い事やってれば誰だって上達する。

それが自分にとってつまらない事なら続けていくのは大変だろうけど、やってて楽しい事なら毎日やってたってなんの苦もない。

だから僕が死ぬまでギター弾いてても、それはなんの自慢にもなりゃしない。

 

99%の才能と1%の努力で成せる事。

それが人に自慢できるほどの事じゃないかと思う。

僕は子供の時からなぜか金魚すくいが得意だった。

一回の最高記録は38匹。手のひらくらいの大きさの金魚でもすくえるし、僕が金魚すくいをやっていると周りの人達が『え、メッチャすごいんだけど』みたいにざわつくのが正直たまらない。

練習なんて全くしたこともないのに、なんでかホイホイ上手くいくから自分でも不思議なんだけどスケートもそう。

僕は北海道出身なので子供の頃は冬になると体育の授業でスケートをやってた。

学校のグラウンドに用務員のおじさんが水をまく車で綺麗にリンクを作ってくれて、生徒はそこでスケートの授業をするんだけど、僕はそれも大した練習もせずに上手くこなせた。

性に合っていたんだろう。

 

金魚をすくいあげることと氷の上を器用にスイスイすべれる才能ってなんなのかよく分かんないけど、この二つに関しては胸を張って人に自慢できる。

自慢した事はないけど、なんか自慢してみろって言われればすぐ金魚すくいとスケートの話を出すだろう。

たいして練習してないのにあれだから練習なんかしちゃったらヤバイだろう。

花山薫みたいなものだ。

もっと人の役に立てるような才能だったら言われなくても人に自慢しただろうけど、これはこれでいい。金魚好きだし金魚すくい楽しいし。

 

今度から初対面の人と話す時は、なんの努力もなく上手にこなせる事ってなんですかと聞いてみようかな

人に秘められた能力を知るのも楽しいかもしれない。

 

自販機バトル開幕

2020年、夏、ついに『自販機バトル』が開催される運びとなった。

 

自販機バトルは3人で行う競技である。

峠など坂道が続く国道沿いの麓にある自販機からスタートして、その山を越えて下りきった所に設置されている自販機をゴール地点として、3人ともに飲み水は一切持たずに猛暑の中、自販機から自販機へ移動しながら突き進んでいく。

ルールは至ってシンプル。

スタート地点と決めた自販機でジャンケンをして、最初に勝った人はジュースを飲まない、2番目に勝った人は自分で選んだジュースを飲む、ビリの人は最初に勝った人が指定するジュースを飲まなければならない。

そしてその自販機の前でジュースを飲み干してから次の自販機へ移動する。

ジュースを飲み干すまでの時間は制限されていないので、急いで飲むもゆっくり飲むも自由。

以上。

これが自販機バトルの全てだ。

この競技の肝はジャンケンに勝ったからと言って有利とは限らない点にある。

猛暑の中で長い登り坂を歩きながら戦うわけだから、汗はかくし喉は渇くけどジャンケンに勝ってしまったらせっかくの自販機で飲み物を買えない。

2番目に勝てば自分の飲みたいものを選べるから、このバトルの参加者は皆そこを狙う。

でもビリが悪いわけでもない。

ジャンケンに最初に勝った人に指定されたものを飲まないといけなくても、飲み物にはありつけるわけだからゆっくり飲んだっていいんだ。

バトルを自分の有利に進めていくのは中々奥が深い。

途中でギブアップするかゴールした時点でビリだった回数が1番多かった人はそれまでのジュース代を全額負担する事になるペナルティを受ける。

 

これが自販機バトルだ。

 

自販機バトルが競技として開催されるようになっても、まだ日が浅いし基本的に夏しかやらないので、この競技が世間一般に浸透するのは程遠い話だろうけど、当初は3人ではなく2人で行っていた。1対1で。

ジャンケンで勝った方は自分の好きなジュースを飲む事ができて、負けた方は相手に指定されたジュースを飲まなければならないというルールだった。

ただ、これだと2人とも常にジュースを飲み続けないといけなくて、ジャンケンに勝っても負けてもすぐお腹がいっぱいになっちゃって、ちっともゴールまで行けないって、ちょっと考えればすぐ分かるような当たり前の事が問題視されて、試行錯誤の結果3人でやればその問題は解消される上にゲーム性も高まって、駆け引きが楽しめるようになるって事でルールが変更されて今の形に固まった。

 

今年のバトルはどこでどんな戦いになるのか、誰が優勝者となるのか、楽しみで今から血湧き肉躍る思いだ。

 

ロールキャベツだけ嬉しくない…

食べたくないって感じる食べ物はたぶんない。

そう思える自分はラッキーなのかもしれないが、前に友達でキュウリが大嫌いだと語気を強めて語ってくれた奴がいた。

彼の言うには、嫌いな食べ物があるって事は逆に好きな食べ物を美味しがる味覚が好き嫌いがない人よりも敏感だと。

嫌いな物があるから好きな物への感心が強まるんだという理論。

全部好きだと1番がないから味覚に関して突出した好みを持てないんだという話だったのがなぜか印象に残っている。

たしかに自分はそうかもしれない。

ものすごく好きな食べ物はあるけど、1番美味しいと思う食べ物は選べないように思う。

うなぎ、マカロニサラダ、カレー、カキフライ、豆腐…

思い浮かべればパパッと自分の好きな食べ物は挙がってくるけど、たとえばカレーで今1番好きなのはこういうのだなってのはあっても、うなぎの中で今1番美味しいと思うものと、今1番美味しいと思うカレーだったら、どっちが勝るかって考えたら軍配のあげようが分からない。

 

嫌いな食べ物がある人なら迷いなくNo. 1の好物に飛び付けるのか。

そうだとしたら迷いを立ちきれない自分は食べ物に関して損をしているのかもしれない。

好きな音楽もそうだ。

音楽が好きだからバーなんかで音楽が好きな人と話をしても、1番好きなミュージシャンは?と聞かれる事があるけど、好きなアーティストがいまくるし、カッコいいと思える曲はジャンル関係なくあるから、どれが1番だって言われても困る。

どのジャンルの何年代の中ならどれが1番好きかって聞かれたら大体選べられるだろうけど、全部の中から発掘しろと言われるのは針の筵状態。

食材自体の味をさほど美味しいと思えなくても、その食材を何と合わせて、こんな調理方法で、こういう味付けにすれば活かせるんじゃないかって考えることが好きだから、ひとえに美味しいと思えないものでも嫌いになる事はないだろう。

それに音楽もそうだけど食事だって何を食べるかと同じくらいどうやって食べるかも大事だと思う。

音楽ならどこでどうやって聴くかによって、その曲への印象はだいぶ違ってくる。

僕はジャズやクラシックも好きだけど、ジャズやクラシックをまったく聴いた事がない人だって、とりあえずそれに適した場所とテンションで聴ける機会があれば『あ、なんかいいな』って思えるはず。とくに集中力のいる音楽は雰囲気が大事。

食べ物だってせかせかした気持ちで慌てて食べても美味しくなんかない。腹を満たすだけの食事なら僕は食べない方がマシだと思っているし、忙しく時間の限られた中でしか食事を取れない生活をしてる人には申し訳ないけど、少なくても『食う』『寝る』は一生死ぬまでやってかなきゃならない事だから、そいつを結婚相手と同じくらい大事にしてあげたいと僕は思う。

勝手な偏見ながら食べ方が汚い、よく噛まない、食べ物を残す、そういう人は家族に対してもおざなりにしがちなんじゃないかと考えてしまう。

 

僕にとっては妻が作ってくれる食事がどこの店で食べるものより美味しい。

それは二人でいられる時間が何より尊いと思っているからだし、僕のためにスーパーに出かけて、重たい袋を持って帰って、僕の事を想って料理してくれる事が本当にありがたくて、だから大金を払って優越感に浸って食べる食事を上回る味わいと満足感を得られるんだと思う。

 

いつもの感謝の印にたまに二人で贅沢な店に行ったりすることもあるけど、妻は大変喜んではいるが、やはり僕としては妻と食べる彼女の手料理の食卓が1番に思う。

 

そう思っていつも家に帰るのを待ちわびながら仕事しているのに、僕はロールキャベツだけ嬉しく思えていない。

という事を彼女は知らない。

嫌いな食べ物なんてないんだから、もちろんロールキャベツも好きなんだけど、あの料理の形態の良さが分からない。

味は好き。美味しい。

でも、ああいう風にしなくてもいいんじゃないかな。

無理してミニトマトにベーコン巻かなくてもいいんだけどな〜っていうのもちょっと思うけどロールキャベツの比じゃない。

いっそロールキャベツを嫌いになれたらハッキリそう言えるのに、妻がロールキャベツを好きなものでよく作ってくれるし、僕も味は美味しいと思ってるからもどかしさが胸に残る。

 

でもこれでいい。

そういうのも夫婦の形。

きっと墓場まで持ってく僕だけの秘密だ。

ハンドルの持ち方判断

車を運転する人のハンドルの持ち方で分かっちゃうんじゃないかって思う事がある。

偏見もあるだろうけど、ハンドルの持ち方である種の人の見分けは付けられると僕は踏んでいる。

基本的なハンドルの持ち方は教習所でこう持ちなさいと教えられる持ち方で、ハンドルの中心あたりを左右に両手で持つごく普通のやつ。

これがAタイプだとして、ハンドルの下のほうを持つ人もいる。ハンドル下部を握るかハンドルに指を添えるみたいに持つタイプ。

指添えはタクシーの運転手さんによく見る気がする。

これはBタイプとしよう。

次によく見るのは右肘を窓のところについて運転してる人。窓を開けて腕を外を出してる人もよく見る。

運転席の左手側に肘を置くトコがある車だと、そこに左肘を置いて右手だけで運転してる人もいる。

いずれも肘を置いての片手運転なので、これはCタイプとする。

次のDタイプはたぶん常にそうしてるわけじゃないんだと思うんだけど、わりと見るので一応タイプ分け。

Dの人はハンドルに両手を覆いかぶせるようにしている人。

言葉で説明するのが難しいが、体を前のめりにしてハンドルに寄りかかっている感じ。

このままの持ち方だとどう考えてもハンドルを回しにくいから、渋滞とかで運転に疲れてる時についやってしまう持ち方だと思う。

 

それから、タイプ分けするほどじゃないが、たまに指一本でハンドル操作をする人もいる。

あれにどんな意味があるのか知らないが、親指だけでハンドルを操作するのが楽には見えないし指が疲れないんだろうか。

 

そして最後のEタイプ。

Eタイプは腰を深く落とすように座って、右手を真っ直ぐに張って体はやや左にひねるような姿勢で運転してる人。

なんであんな姿勢で運転するのか知らないが、このタイプはけっこういる。

腰の落とし方がすごいと左肘でシートの背もたれを支えて、右腕をビシっと張って運転してる。このタイプの人はハンドルの上の部分を持っている。

普通の椅子であの姿勢をしてる人を見た事ないのに、車になるとあの姿勢をしてしまうのが不思議でならない。

ヤンキーっぽい感じの持ち方?かもしれない。

 

誤解を恐れずに言うなら、このEタイプの人にあおり運転をする傾向があるんじゃないかと考えている。

あおり運転ってその道を走る事に慣れきった人がしたくなるんじゃないだろうか。

日時的に荒っぽい運転をしてる人でも、今からいきなりサンフランシスコをレンタカーで走らないといけないって事になったら、あおるどころか運転する姿勢も正して両手でしっかりハンドルを持つでしょう。

普段走り慣れた道路を自分の道のように勘違いしてるから、自分の運転感覚と違う走り方をしてる車がいると邪魔者に思えてしまうんじゃないか。

つまり車のハンドルの持ち方は運転することの注意力の表れで、明らかに突然の事態に対応出来なさそうな姿勢とハンドルの持ち方で運転してる人は、その道を自分の道のように知ったかぶっている人であろうから、僕はそこにあおり運転につながる目に見える形があるんじゃないかと思う。

あおり運転をしないにしても、急な運転対応ができないと思われる姿勢とハンドルの持ち方をしてて良い事はないでしょう。

どんなによく知ってる道路だとしても、何が起こるか分からない緊張感を持って運転すれば、自動的にハンドルは両手で左右を持つようになると思う。

ハンドルの持ち方で明確な人格判断なんか出来るわけじゃないけど、そこに目に見える油断と気取りがあるのは確かだと思う。

誰かを傷つけたり死なせてしまうかもしれない車の運転に自分が良いとする考え方なんか完全に必要ない。

むしろ、いつだって運転しづらいし、走りにくいし、どこを走ってるのか分からないくらいの気持ちでいた方が安全なんじゃないかと思われる車の運転というものの矛盾を感じる。

 

僕はいっそ自動車免許取得は義務化にした方がいいんじゃないかと思う。

それ以前に小学校の頃から『交通』を学ぶ授業を取り組んで、子供のうちから交通ルールを守る事が当たり前なんだとみんな一緒に共通意識として持てるようにした上で、18歳になったら自動的に教習所に通うようにする。

さらに普通車免許を取るんだとしても、教習所内でトラックやバスなどの大型車も運転して、その感覚と技術を学べば、実際に自分の車で路上を走っている時でも、あらゆる車の事情を頭で理解できる状態が整っているので、他の車を邪魔がったり妨害するような乱暴な運転をする輩は今よりは減っていかないだろうか。

 

大事な事は子供のうちに学校の友達とみんなで『そういう事はしちゃダメだよな』『こういう風にしよう』っていう意識を共有し合えるようにする事だと思っている。

子供の共通意識は強い正義感をもたらす。

だからそれに逆らう事はしないように心がけるし、そういう気持ちは大人になっていくにつれて社会の常識として刷り込まれるだろうから、自分本意な考えで交通ルールを乱すような人間は減っていく方式をザッと考えてみたんだけど、ハンドルの持ち方案なんかじゃ安倍さんは『いいね!』してくれないだろうな。

木蓮が怖い

春が近づいて来ると梅の花が咲き出して、もう少しで桜も咲くな〜と花見が待ち遠しくなってくる。

そんな頃。梅と桜の間の今頃に木蓮が花を咲かす。都内の自分周辺ではそんくらいの時期。

 

木蓮も人気の花なんでしょう。いろんなところで見るし。

しかし僕はあれがなんか怖い。

その辺に植ってるのはだいたい白い花を咲かすハクモクレンで、たまに紫の花を付けるシモクレンも見かけるけど、木と花のコントラストが僕にはおぞましく見えてしまう。

いきなりデッカい花がモリモリ咲きまくって、木と花の調和が取れてないように思える。

もし、木蓮がこの世に存在してないとして、たとえば絵画教室で自分で想像した花を描いてみましょうって事になったとして、木にデカくて真っ白な花をモリモリ描きまくった絵を描いたら、先生から色の使い方とか花と木のバランスの事とかで苦言を呈される気がする。

花がデカくて色が真っ白だからか、なんだか僕には浮いて見えてしまうんだ。

紫のほうも毒々しいほど紫だから、あれもなんか怖い。

すぐにボタボタ花が落ちるところもなんか怖い。木蓮の花が落ちた道はすごく汚くなるのも幻滅させる。

イチョウの木に銀杏が成って、それが道に落ちて踏み潰されて異臭を放つのも最悪だけど、銀杏は食べられるのであっさりと道を汚しまくるイチョウ木蓮なら木蓮の負けだろう。

花見の主役の桜にも毛虫がつきまくる弱点はあるけど、桜の花のか弱い感じや可憐な様子と、木蓮のどぎつさは比べる事自体おかしいほどかけ離れている。

たぶん木蓮の花弁がもう少しうっすらとしてて、花が咲く時に葉も生えていたら、木と花と葉のバランスに調和が取れて、どれも強調しすぎない見栄えになるんじゃないだろうか。

想像としてはツツジみたいな感じ。

ハクモクレンを見る事が特に多いから思ってしまうのが、なんかこうジャミラの気味の悪さに近いように感じる。

ダダでもいい。

ハクモクレンとダダとジャミラを並べてみたら、共通する怖さが見て取れるんじゃないか。

烈火の炎』の登場人物に木蓮ってキャラがいたけど、あいつより実物の木蓮のほうが僕には不気味に見えると連載していた頃から思っていた。

 

そんな木蓮花言葉は『自然への愛』

他の植物と交わる気がないんじゃないかと思うほど極端な実らせ方をするのは不自然なことのように思えるんだけど、まさかの自然への愛。

見かけによらないとはこの事だ。

 

おじさん化現象

たとえば『右見て左見て』

子供が道路を横断する時、一緒にいる大人は子供にそう言い聞かす事があると思う。

別に左見て右見てもいいんだけど、日本の道路は左側通行になっているわけだから、歩行者が道路を横断する時は必ず自分の右から来る車と先に交差する事になる。

だから右を見てから左を確認するって順番の方が安全だって話。

でも、道路を渡る前に完全に止まって左右両方をちゃんと確認しているなら、右から見ようが左から見ようがどっちだって一緒だと思う。

道を歩いてる人ならちゃんと安全を確認してればそれでいい話なんだけど、車を運転してて信号のない道路を横断するってなると別。

一時停止の線の位置から左右が見えにくい事もあるので、車をちょっと前に出して左右を確認しなくちゃいけない時は必ず右を見ながらじゃないとダメって事は教習所に通ってなくても分かる人は普通に理解できるはず。

でも、右側は一切見ないで左側を見つめながらゆっくり前に出てくるドライバーってけっこういる。

その車が交差する道路を直進しようが左折しようが右折しようが、必ず右から来る車とぶつかる危険が1番先にやってくるのに、なんで右の事は一切無視してゆっくり出てこれるんだ!って運転手に言ってやりたくなる時って、ものすごく自分がおっさん化していることに気づかされる。

自分の正しさを分からせたくなるのは完全におじさんだ。

危ねえって思ったなら自分が速度を落として、その車が飛び出してきても安全なようにすればいい。それかクラクションを鳴らして注意を促せばいいんだから、この野郎!ってする必要はない。

常識ってものに頭を固くして考えているから、それに外れた事をしてる人を見つけると『こうでこうでこうだろう!』と自分が正しい事を強調して説教したくなってしまうんだ。

これは自分が中学生くらいの頃に大人ってこうだからムカつくって思ってたそれそのもの。

世間一般と同じようにしてないといけないなんておかしい。

車の運転は命に関わる問題にもなるから、右を先に確認した方がいいとは思うけど、ちゃんと止まりながら左右を確認できる場所だったら、どっちから見たっていいだろう。

要は安全を把握できればいいんだから。

それを頭ごなしに日本って国は左側通行なんだからって話から自分の正当性を理解させようとするなんてナンセンスだ。

『これだから女の運転は…』とか『これだからサンデードライバーは…』とか言ってる奴こそ『これだからおっさんドライバーは…』って話。

歳を取ればシワが増えてきたり、白髪が目立ってきたりするけど、体が年齢を物語っても意識が若ければそれだけで見え方にも表れるものだろう。

それを忘れて自分で自分を凝り固まらせたおっさんにしてしまう所だった。

体のコリより心のコリのほうがずっと怖い。

体のコリなら自分ですぐ気づけるけど、心の方はもしかしたら気づかないかもしれないんだから。

 

 

仕事中グロリアス

仕事中に頭の中でよく知ってる曲をイントロの出だしから最後のサビまで再生していると、GLAYの曲が精神的に良い落ち着きと高揚をもたらしてくれる事が判明した。

気持ちが明るくなるので単純な作業の繰り返しでも飽きずにせっせとこなせるし、歌が前向きで音が明るいとそれは仕事にも反映される。

慣れた仕事は楽しさより退屈さの方が感じやすいので、よく知ってる曲を頭の中でフル再生して黙々と打ち込めるようになるなら儲け物だろう。

気分よく仕事が出来たら仕事の後も清々しいものだ。

よく行く飲み屋に騒がしい客がいても『みなさんお仕事の疲れを楽しんで発散してらっしゃるのね』と微笑んでいられる。

つい人から『すいません』とか『ありがとうございます』と言われる事をしてしまう。

そして『いえいえ、とんでもありませんよ』とは言わずにそっと頭を下げてさりげなく振る舞う。

これがいつもなら良いんだけど、僕みたいな人間は気が緩んでしまうとすぐ口には出さない舌打ちを頭の中で『チッ』とやってしまうから、気持ちのよい人間でいるための工夫が常に必要だから大変。

しかし普段GLAYを聴くことは全くないっていうのに仕事をしてると意識せずともGLAYが再生されるのが不思議だ。

なぜかグロリアス

イントロのテレレレレレッ…テレレレレレッ…からハッキリと。

中学生の頃はかなりGLAYを聴き込んでいたので『speed pop』『beat out』『beloved』の中で好きな曲なら今でもカラオケの画面を背中に歌い切れそうな気もするが、もっと他に好きな曲があるのにグロリアスばかり自動再生されまくるのは、グロリアスになんらかの癒し効果があるって事なんだろうか。

あと『生きてく強さ』もちょいちょい流れる。

そのカップリングの『cynical』もたまに来る。

自分で選んで記憶再生してるわけじゃないけど、この3曲を仕事中に頭の中で再生してるとスッキリした気持ちになるし仕事もはかどるから大変ありがたい謎だ。

GLAYを聞かずにGLAYに感謝しているのはGLAY的には微妙だろうけど、僕はこれからも毎日のようにグロリアスを記憶の中でリピートし続けますよ。

ただ僕にとってGLAYがそうだっただけで、他の人もグロリアスを頭の中で流しながら仕事したら気分よく熱中できるのかって考えたらきっと違う。

頭を使う事が仕事の人なら意識してないのに勝手に音楽が頭の中で流れ続けたら邪魔でしょうがないだろうし。

でも手はちゃんと動かしながら頭の中で別の事考える余裕がある職種の人なら、とりあえずグロリアスを試してみてもいいかもしれない。

僕のように思えなくてもGLAY側は悪い気はしないだろうし、自分にとっての楽しく仕事ができる一曲が見つかるきっかけになるかもしれない。