網走神社
小学生の頃の事。
僕が通っていた小学校の通学路にこの神社があって僕は毎日そこを行き来していた。
ある日友達と学校の帰り、網走神社の手水舎で水をかけ合って遊んでいたら、隣の社務所の窓から神主が爆竹を投げてきた。
僕らは突然の炸裂音にビックリして後ろを振り返ると、窓から手を出した神主が二発目の爆竹を投げてきた。
爆竹を、投げるかね。
手水で遊んでいた事がどんなに悪い事だとしても子供に爆竹を投げるかね。
窓から顔を出して『ダメだぞ』と言えばそれで済む事だし、自分ら以外にもそこの手水で遊ぶ子供らがいて日頃から困ってたんだとしても、小学生に爆竹を大人が投げてくるかね。
あらかじめ爆竹を用意していたんだから、きっと手水で遊ばれる被害が多発していたんだろうけど、それにしても爆竹を投げてくるかね。
農作物を荒らす獣じゃあるまいし。
右手前のが手水舎で、その裏手にあるのが社務所。窓はちょうど手水舎の屋根で隠れている部分にある。
それがあった事で僕は神社で真剣に祈る事をやめた。
そんな神主ばかりじゃないことは分かっているけど、そんな奴でもなれるんです。神社の主に。
子供に爆竹を投げつけて来る奴がいる神社に賽銭を払って手を合わせてお祈りしてなんかなるのか?
そんな奴でも神主になれる神社って所に本当に神様がいるとはとても思えない。
警官が犯罪に手を染めたってニュースが報道されたら、それを見た人は警察全体に不信感を抱くだろう。
それと同じ。
全ての神主が爆竹を投げて来るなんて全く思ってないけど、そういう奴でもなれちゃう程度のものなんだなって思えてしまう。
ちなみに真剣には祈らないけど、神社で手を合わせる所作自体は美しいと思っているので、初詣のような時はその所作を行うために神社には行く。でも頭の中で祈ったりはしない。ただ手を合わせるだけ。
それはいいとして網走神社のほど近くには池があった。池と言うか沼と言うか。
神社から社務所の横を通って歩くこと数十秒。
小学生の頃は底無し沼と呼ばれていたあの丸い池は今もあるのかな。
丸い形の池の中央にちょこっとした陸地が島みたいにポツンとあって、冬になると池の水が凍って氷の上を歩けるようになるから、冬場の間だけ島に上陸する事が出来た。
学校の行き帰りに友達とよく遊んだ思い出の場所だ。
あの池がまだあるなら久しぶりにあそこへ行って、今でも魚が泳いでいるのか見てみたい。
同じく小学生の頃、その時は自分一人で池の前を通っていた時にふいに水の中に魚影が見えた。
こんな汚いところに魚がいるのか!と驚いて、池の淵に立ってジッと水中を見つめていたら、確かに何匹かの魚が見えた。しかもそんなに小さくない。大きくはないけど10センチくらいはあるように見えた。
よく見たら池の端にこんがらがった釣り糸が落ちていて、それを拾って手繰り寄せてみたら手応えを感じた。
魚がかかっていた!
誰かがここで釣りをしていたんだと理解して、この糸の先にどんな魚がが…とドキドキしながら引っ張っていたら。
その時。
またもや、あのおっさんが現れた。
今度は爆竹じゃなく細い棒を持って。
『ここで釣りしてるのはお前か!』と怒鳴られて、手に持っていた細い棒で叩かれて、違いますと釈明する間も無く『帰れ!』と一喝されて、僕はおずおずと逃げるように帰った。
あのおっさんは神と1番遠いところにいるべきじゃないか。
もし僕が日本の神様なら、あのおっさんをブラジルに移り住ませる天罰を与えてやるところ。
もし、まだあの池のような沼のような場所があのままあって、今でも魚が泳いでいるなら釣りに行ってやる!